ブラジルW杯で準優勝のアルゼンチンが、今はロシア南米予選で大苦戦。
一時は10か国中6位と圏外まで順位を落とし、現在は辛うじてプレーオフ周りの5位という始末。
昨年は3連勝と好スタートを切ったものの、その後は1勝2分け2敗。
この不振の原因に挙げられているのが、ホームゲームを地方で行ったこと。
通常はブエノスアイレスのリーベルスタジアムが会場となるが、昨年行われた4試合は、コルドバ(2回)、メンドーサ、サンファンとすべてが地方だった。
代表の練習・宿泊所はブエノスの国際空港から至近距離にあり、リーベルのスタジアムへは高速を通ってバスで1時間弱。
しかし地方会場の場合は、飛行機で前日移動となる。
選手のほとんどがヨーロッパから10時間以上かけて帰ってくるので、コンディションを整えるために休息は不可欠。
その点で、地方開催にはデメリットがある。
予選はホームゲームとアウェイゲームが連続するので、休息の不足は2試合に影響することもある。
昨年、代表のバウサ監督は、「ホームゲームをボンボネーラで行いたい」との希望を述べた。
地方でなくブエノスがいいというのは当然ながら、リーベルのスタジアムでなく、ボカのスタジアムを候補に挙げたのは何故か。
それは、「ボンボネーラは相手にプレッシャーを与えられる」(バウサ)からだ。
狭い敷地に建設されたボンボネーラは、4面が急角度のスタンドに囲われた箱のようになっている。
ゴールライン、タッチラインとスタンドは非常に近い。
この状況でプレーするアウェイのチームは、上から降ってくるブーイングや間近からの罵声に恐怖感すら感じるのだ。
最後にボンボネーラでW杯予選が行われたのは、1997年11月16日のコロンビア戦。
日本がW杯初出場を果たしたフランス大会の予選だ。
そして、そこにはホルヘもいた。
このときは日本の雑誌だけでなく、コロンビアのスポーツ誌DEPORTE GRAFICO(デポルテ・グラフィコ)の仕事も請け負っていた。
この雑誌とは94年から付き合いがある。
アルゼンチン、ブラジルといった大国以外の南米のメディアは予算が少なく、外国で行われる重要な試合にも、派遣するのは記者1名というのは普通のこと。
95年にウルグアイで開催されたコパ・アメリカでも、ホルヘはこの雑誌を手伝ったものだ。
さて試合は1-1のドローだったが、先制したコロンビアのゴールを決めたのは、あのバルデラマ。
得点後の歓喜の表情を撮りたかったが、彼はホルヘに背を向け、両腕を左右に伸ばしながら逆方向へ去っていった。
当時のカメラはフィルムの時代。
しかも一般のネガフィルムでなく、ポジフィルムを使用していた。
これは、町の写真屋では現像できない。
しかもコロンビアの記者に早く渡さねばならなかったので、かねてより関係のあるアルゼンチンのサッカー雑誌SOLO FUTBOL(ソロ・フットボール)で現像した。
そしてその写真は、バルデラマのゴールシーンと歓喜の背中が見開きに掲載され、引き伸ばされた10番が表紙を飾った。
ホルヘにとって、思い出深い仕事の一つだった。
しかし、DEPORTE GRAFICOもSOLO FUTBLも今はない。
「次のホームゲームはボンボネーラ?」という動きに敏感に反応したのはリーベル。
ブエノスで行うなら、「うちが聖地だ」との思いがあるし、ボカには強いライバル意識をもっている。
ボンボネーラのメリットは相手へのプレッシャーとされるが、これに対抗する記事がマスコミに流れた。
昨年のコパ・リベルタドーレスにおいて両方のスタジアムを経験したエクアドルのインデペンディエンテ・デル・バジェの選手の、「リーベルのスタジアムのほうが緊張した」というコメントだ。
たしかにリーベルのスタジアムは78年W杯の決勝の舞台なので、そこでプレーすることに特別な感慨をもつ選手もいるだろう。
しかしわざわざこんなコメントを流すのは、リーベルが後ろで糸を引いているからだろう。
さらにリーベルは、収容人数がボンボネーラより多いことをアピール(62,000人対49,000人)。
観客が多ければ協会の収入が増えるので、会場選択の決定権をもつ協会を意識した発言だ。
するとボカは、スタジアムの使用料はタダにするといい出す。
使用料は協会が払うものなので、これを取らないことでキャパの少なさを帳消しにした。
しかしリーベルも無料を打ち出し、その結果、3月23日に行われるアルゼンチン対チリは、リーベルスタジアムで行われることに決着したのだった。