8月8日、台風の風に煽られながら成田に到着。
機体がかなり揺れて怖い思いをしたが、荒天のおかげで気温は低く、いきなり酷暑の洗礼を受けず助かった。
 
 
深夜、何気なくテレビをつけると、BSでスルガバンクカップを放映していた。
もちろん録画だが、セレッソのホームである大阪では、地上波で生放送されたのだろうか。
 
 
この大会は2008年から開催されている。
日本サッカー協会の人が以前話してくれたが、この大会はヤマザキナビスコ(現ヤマザキビスケット)への恩返しの意味合いが強いのだという。
Jリーグ発足1年前の1992年から、ヤマザキは一貫してナビスコカップ、ルヴァンカップの冠スポンサーになってくれている。
なんでも、同一スポンサーによる最長のカップ戦としてギネスブックにも登録されているそうだ。
このことに対して協会は常に感謝していた。
しかしJリーグと天皇杯はAFCチャンピオンズリーグにつながっているが、ナビスコカップは優勝してもその先がない。
大会の格を上げナビスコに報いるためには、その先にもう一つの進展が欲しかった。
そしてそれが、スルガバンクカップによって実現したのだった。
 
 
コパ・スダメリカーナ王者とナビスコカップ王者が対決するこの大会は、CONMEBOLの公式戦でもある。
しかし南米のクラブにとっては、さほど重要な大会ではない。
日本へ来る途中、ヨーロッパやアメリカで親善試合をし、観光気分で試合日のぎりぎりに来日するケースもあった。
 
 
それに対し、迎え撃つ日本のクラブは本気モードだったのだが、今年のセレッソはJリーグ優先で主力温存。
サポーターも盛り上がらないようで、テレビ映像ではスタンドもガラガラだった。
 
 
しかし、インデペンディエンテは気合が入っていた。
10日前に来日して暑さ対策にも万全を期した。
ここまで本気になるのには、それなりの理由がある。
 
 
インデのニックネームはディアブロ(悪魔)だが、それとは別にレイ・デ・コパス(カップの王様)という称号のようなものがある。
カップとはもちろん優勝カップのことだ。
今でこそコパ・○○という大会はいくつもあるが、そもそも南米でコパといえばコパ・リベルタドーレスを指していた。
そしてインデはその大会を、1964、65、72、73、74、75、84年と最多の7度制覇。
スタジアム名はその偉業にちなみリベルタドーレス・デ・アメリカとなっている。
 
 
さらにヨーロッパ王者と戦うインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)は73、84年に制し、その他にもコパ・インテルアメリカーナ、レコパなど国際大会16冠を成し遂げた。
まさに、カップの王様だ。
 
 
しかし、その記録がボカの18冠に破られる。
2差をつけられ意気消沈したものの、昨年末にコパ・スダメリカーナ優勝を果たし、ボカに1差でスルガバンクカップに参戦。
これは、本気にならざるを得ない。
そして1-0でセレッソを下し、見事に目標を達成した。
 
 
一昨年末に就任し、国際大会2冠を制したホラン監督は、元々の本職はホッケーだった。
高校時代からホッケーをはじめ、その後は指導者の道へ進んだ。
そして2003年にはウルグアイ女子代表の監督としてパンアメリカン大会で銅メダルを獲得している。
同大会は北中南米の約40ヶ国が参加する地域オリンピック。
同大会でウルグアイが3位になるのは、史上初の快挙だった。
 
 
同じ年にホランはサッカー界へ転身し、アシスタントコーチ12年を経て2015年にデフェンサ・イ・フスティシアで監督デビュー。
その後、名門インデと契約を結んだ。
高校の教員レベルなら、ホッケー部の監督が赴任先で別の競技に携わることは多々あるが、トップに昇りつめた指導者が多種目へシフトし、そこでも成功するのは非常に珍しい。
 
 
スティックを高く上げることが禁止されているホッケーでは、ハイボールからヘディングというサッカー的プレーはできない。
グラウンダーのパスが基本だが、コースが少しでも甘いとスティックが伸びてきてカットされてしまう。
パスワークでは、サッカーより緻密さが要求される。
ホランはサッカーのダイナミックさとホッケーの緻密さを融合させ、新たなスタイルを確立した。