10月4日から南米でもW杯予選が始まった。
 
そして、ブラジルとアルゼンチンが負けるという面白いことになっている。
 
ブラジルはアウェイでチリに0-2の敗戦。
 
ネイマールは出場停止だし、チリは先のコパ・アメリカで優勝したばかりの絶好調なので、
 
驚きではあるが許容範囲。
 
しかし、エクアドルがアウェイでアルゼンチンを破ったのには度肝を抜かれた。
 
 
 
故障のメッシが不在でアグエロが早々と負傷退場したとはいえ、まさかエクアドルが勝つとは。
 
しかも守備を固めての守り勝ちではなく、果敢に攻め込んだ末の勝利だった。
 
アウェイでアルゼンチンに勝つのは、エクアドルにとって初の快挙だ。
 
 
 
ホルヘはアルゼンチンに住んでいるが、
 
相手がエクアドル、コロンビア、ウルグアイのときは、そちらを応援する。
 
中でもエクアドルには特に思い入れがある。
 
1991年から92年にかけて約5か月滞在し、ホルヘを南米に染めたのがこの国なのだ。
 
その後何度も訪れ、同国のサッカーと代表の成長を目の当たりにしてきた。
 
 
 
エクアドルと日本は同じようなタイミングでサッカーの強化を始めた。
 
93年のJリーグ開幕が決まっていた日本はそれに合わせて強化が行われ、
 
92年自国開催だったアジアカップに初優勝。
 
一方のエクアドルは、93年に自国開催となるコパ・アメリカのために
 
当時のユーゴスラビアからドラスコビッチ(モンテネグロ人)を監督に招聘。
 
すぐに結果は出なかったが、これが日本に1大会遅れてのW杯初出場(2002年)の礎となっている。
 
 
 
94年のアメリカ大会出場を逃すと、今度はコロンビア人のマトゥラナが監督になった。
 
彼は90年から2大会連続で母国をW杯に導いている。
 
90年イタリア大会への出場はコロンビアにとって28年振りのことだった。
 
しかも彼は同時期に国内の強豪クラブであるA・ナシオナルの監督も兼任し、
 
コロンビア勢として初となるコパ・リベルタドーレス優勝を成し遂げ、
 
この当時は屈指の名将として知られていた。
 
 
 
彼が着任してすぐ、キリンカップで来日することになった。
 
そこでホルヘは取材のためエクアドルへ飛んだ。
 
マトゥラナが着任して最初の練習は非公開だったが、「日本人は特別にOK」と許可してくれた。
 
しかし撮影した写真の使用については何も条件をつけられなかったので、
 
現地の雑誌ESTADIOに提供して大いに喜ばれる。
 
このおかげで、キリンカップでは同雑誌から仕事をもらえた。
 
 
 
来日したエクアドル代表の練習にも張り付き、選手たちとも仲良くなった。
 
中でも話が弾んだのは、GKのセバージョス。
 
その後、彼とは何度も顔を合わすことになる。
 
 
 
マトゥラナもW杯の扉を開けられず、後任はコロンビア人のゴメス。
 
彼はマトゥラナの愛弟子で、指導スタイルは同じ。
 
ただしドクターの資格を持つマトゥラナが厳格だったのに対し、ゴメスは親分肌で陽気。
 
試合前には、ピッチでサルサのダンスを披露して観客を喜ばせるサービスもしていた。
 
 
 
そして勢いに乗ったチームは、最終節を残した段階で、
 
ホームでウルグアイと引き分けて悲願の初出場を決めた。
 
当時テレビ番組のレポーターもやっていたホルヘは、
 
ハンディカムで撮影しながら歓喜に沸くピッチ内へ入っていった。
 
すると、芝に倒れながら号泣しているセバージョスを発見。
 
「ついにやったな。おめでとう」と声をかけると、ガバッと立ち上がり、
 
泣きながらホルヘに抱き着いてきた。
 
歴史的瞬間に立ち会えた上、中心選手に抱き着かれて大感動。
 
この思い出があるから、今でもエクアドルが一押しなのだ。
 
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About The Author

ホルヘ三村

ラテンのフットボールを愛し、現在はgol.アルゼンチン支局長として首都ブエノスアイレスに拠点を置き、コパリベルタドーレス、コパアメリカ、ワールドカップ予選や各国のローカルリーグを取材し世界のメディアに情報を発信する国際派フォトジャーナリスト。 取材先の南米各国では、現地のセニョリータとの密接な交流を企でては失敗を重ねているが、酒を中心としたナイトライフには造詣が深い。 ヘディングはダメ。左足で蹴れないという二重苦プレーヤーながら、美味い酒を呑むためにボールを追い回している。 女性とアルコールとフットボールの日々を送る、尊敬すべき人生の達観者。

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