2002年日韓W杯の優勝候補だったアルゼンチンは、期待を裏切りグループリーグで敗退した。
この結果に母国は大激怒。
超攻撃的なチームだっただけに、ナイジェリアに0-1、イングランドに0-1、スウェーデンと1-1というスコアからマスコミの非難はオフェンス陣に集中。
司令塔だったベロンは当時マンチェスターUに所属しベッカムと仲がよかったため、「イングランド戦は金をもらってわざと負けた」とまでいわれ、完全な戦犯にされてしまった。
 
 
しかしホルヘの見方は全く違う。
最大の原因は、守備の要であるアジャラの負傷欠場だ。
キャプテンであり不動のストッパーとして3バックの中央に君臨していた彼は、初戦であるナイジェリア戦のアップ中に故障し、1試合も出場せず日本を去った。
アジャラ抜きの3バックは連係が悪く、中央突破されてピンチを招くことが多かった。
自然と中盤は引き気味になる。
3-4-3のシステムで中盤が下がれば、前線の3枚は孤立する。
1分け2敗1得点3失点という悪夢はこうして生まれた。
 
 
W杯で優勝候補に挙げられたのは、南米予選での成績がずば抜けていたからだ。
18試合で13勝4分け1敗42得点15失点という驚異的なものだった。
最終戦はアウェイでのウルグアイ戦で、ホルヘはこの試合である疑惑を持った。
それは「片八百長」だ。
 
 
ウルグアイはこの試合に引き分ければ大陸間プレーオフに出場できる。
実力はアルゼンチンが大きくリードしている。
ウルグアイが負ければ、プレーオフの権利はコロンビアが得る。
という状況だった。
 
 
アルゼンチンとウルグアイは強烈なライバル関係にあるが、兄弟のような面も併せ持っている。
一方、コロンビアとは深い縁がない。
ということで、プレーオフにはウルグアイに行ってもらいたい、というのがアルゼンチン人の情だ。
 
 
試合はウルグアイが先制しアルゼンチンが追い付いて1-1で終了。
ガンガン行くウルグアイに対しアルゼンチンは消極的で、失点を機に火がつくも、同点になると再びペースダウン。
映像ではわかりにくいが、ピッチ上のカメラマン席にいたホルヘは、それまでのアルゼンチンと全然違うと感じた。
ボールとゴールへの執着や殺気というものがまるでないのだ。
 
 
こうしたことで片八百長を疑っているのだが、アルゼンチン絡みではもっと大きな八百長疑惑がある。
 
 
それは1978年にアルゼンチンで開催されたW杯の2次リーグ最終戦、アルゼンチン対ペルーだ。
当時の参加国は16か国で、4チーム×4グループの1次リーグの後4チーム×2グループの2次リーグが行われ、各グループの1位同士が決勝戦を争うシステムだった。
 
 
アルゼンチンはペルーに4点差以上で勝たなければならない厳しい状況だったが、結局6-0で大勝し、決勝戦でオランダを下して初優勝を飾った。
この6-0が八百長ではないかと疑われている。
 
 
試合直後から疑惑はあったが、当時のペルー代表選手が数日前にメディアに内幕を語ったことで、再び大きな話題となった。
 
 
この選手はベラスケスで、彼によれば八百長はアルゼンチンとペルーの大統領の間で決められ、それが協会、監督、選手へと降りて行ったという。
当時の両国は軍事独裁政権下にあり、大統領の命令は絶対だった。
 
 
ただベラスケス自身は、そのような雰囲気は感じていながらも、直接的な指示は受けていなかった。
彼と数名の選手は「全力で戦うことを誓い合い」、さらにカルデロン監督にGKのキロガを起用しないように進言した。
キロガはアルゼンチン国籍を持っていたからだ。
監督はそれを了解したが、試合当日、キロガは先発になっていた。
さらにレギュラーの中にセンターフォワードが一人もいないという、非常識なメンバー構成だった。
 
 
試合20分前には、ペルーのロッカールームにアルゼンチンのビデラ大統領がやってきた。
しかも、アメリカのキッシンジャー元国務長官を同伴していた。
キッシンジャーはノーベル平和賞を受賞した国際的大立者。
彼がいるということは、これはもう政治問題になっている。
 
 
独裁政権下のアルゼンチンでは国民の不満が膨らんでおり、政権は自国開催のW杯を利用して国情を安定させようとした。
優勝に向けて国民を一体化させる。
それに失敗すれば、政権が危うくなる。
 
 
時は東西冷戦下で、アメリカとすればどのような残虐な独裁国でも西側の同盟国にとどめておきたい。
国情が不安定になり革命が起きれば、東側が介入してくるのは明らかだ。
キッシンジャーはそれを阻止したかったのだろう。
 
 
訪問の名目は選手激励だが、それならアルゼンチンのロッカールームにも行くはずなのに、そちらは訪れなかった。
そしてビデラはペルーのベルムーデス大統領のメッセージを読み上げた。
それは、「我々(アルゼンチンとペルー)は常に協力し合い助け合ってきた。アルゼンチンが優勝できなければ、大変なことになる」というものだった。
 
 
それでもベラスケスは試合で手を抜かなかったが、0-2だった後半10分にゴリッティと交替させられ、その後次々と失点を重ねる。
当時は今より交代選手枠が少なく、交代は負傷者が出たときのもので、戦術的な利用はあまりなかった。
ベラスケスも71年に代表デビューして以来、途中交代をさせられたことはこれが初めてだった。
 
 
ベラスケスは、「6人が買収されて八百長をした」とし、監督のカルデロン(故人)、GKキロガ、交代出場のゴリッティら4人の実名を挙げた。
今さら感はあるものの、「やっぱり、そうだったのか」とスッキリした人は相当いるようだ。


About The Author

ラテンのフットボールを愛し、現在はgol.アルゼンチン支局長として首都ブエノスアイレスに拠点を置き、コパリベルタドーレス、コパアメリカ、ワールドカップ予選や各国のローカルリーグを取材し世界のメディアに情報を発信する国際派フォトジャーナリスト。 取材先の南米各国では、現地のセニョリータとの密接な交流を企でては失敗を重ねているが、酒を中心としたナイトライフには造詣が深い。 ヘディングはダメ。左足で蹴れないという二重苦プレーヤーながら、美味い酒を呑むためにボールを追い回している。 女性とアルコールとフットボールの日々を送る、尊敬すべき人生の達観者。

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