8月28日、CONMEBOL(南米サッカー連盟)元会長のニコラス・レオスが90歳で亡くなった。
彼は1986年から2013年まで6期・27年間に渡り、南米サッカー界の頂点に君臨していた。
しかし一連のFIFAゲートで莫大な額の収賄、横領、マネーロンダリングの罪に問われ失脚。
パラグアイ国内の裁判で有罪となり、高齢ということで自宅軟禁状態だった。
しかもアメリカの司法からも告訴されており、身柄はアメリカへ送られようとしていた。
レオスはこれを認めないよう自国の裁判所に訴えていたが棄却され、控訴。
そして体調を崩して入院中に息を引き取った。
上告しても勝てる見込みはなく、やがてはアメリカへ移送される身だったので、母国で人生を閉じられたのは幸いだったといえるかもしれない。
 
 
CONMEBOLは1916年に創立され、90年に本部をパラグアイのルーケに置くことが決定。
南米のサッカー界は歴史的にブラジル、アルゼンチン、ウルグアイが主導権争いをしていた。
そこで本部は、この3か国から近い中立地ということでパラグアイになったのだろう。
しかしチリも同様の条件は満たしているし、CONMEBOLへの加入はパラグアイより早い創立メンバー。
このライバルを退けてパラグアイに決定させたのは、レオスの強力な招致活動によるものかもしれない。
 
 
レオスが汚職で辞任した後、会長の座に就いたのは、副会長から昇格したウルグアイ人のフィゲレド。
しかし彼も同罪で起訴されて去り、その後を継いだパラグアイ人のナポウも罪が発覚している。
つまり、CONMEBOLは3代に渡り会長が汚職で挙げられているのだ。
なんと腐敗した組織であろうか。
しかし、以前はそうではなかった。
 
 
レオスの後任フィゲレドには思い出がある。
93年のコパ・アメリカ エクアドル大会でホルヘは彼と出会っている。
カメラマンは試合前に両チームの集合写真を撮るため、タッチラインの中央に集まる。
しかしそこは選手の入場通路でもあり、無秩序に並ばれると入場に支障をきたす。
そこで運営側がカメラマンの位置をコントロールする。
そしてその役がフィゲレドだった。
ホルヘが首からかけているプレスカードに「JAPON」と書かれているのを見て、「日本から来たのか」と話しかけてきた。
そしてカメラマンの位置をコントロールする際にも、「右端は日本人まで。それから先は後ろへ回って」と便宜を図ってくれた。
彼とは行く先々の会場で、カメラマンとそのコントロール役ということで顔を合わせたが、特筆すべきは、フィゲレドはその時点で副会長クラスの最高幹部だったということ。
それほどの役職の人が現場へ出て、ときには雨に濡れながらカメラマンの整理を行っていた。
それほど質素で純粋なCONMEBOLだったが、サッカービジネスの急成長により多額の金銭にまみれて腐敗してしまった。
 
 
パラグアイ関係ではもう一つニュースがある。
29日にアスンシオンでセロポルテーニョとコパ・リベルタドーレスの第2戦を戦うリーベルのデ・ラ・クルスが、試合前日に逮捕された。
現地警察がリーベルの宿舎へやってきて身柄を拘束。
その容疑は、3年前のささいなことだった。
16年にアスンシオンでU-20のコパ・リベルタドーレスが行われた。
カードはウルグアイのリバプール対ブラジルのサンパウロ。
ウルグアイ人のデ・ラ・クルスはリバプールの一員として参加。
そしてサンパウロの勝利で試合が終わると、リバプールの選手が集結して険悪ムードとなった。
それを鎮めるため警官が選手を取り囲んだが、デ・ラ・クルスはそこで警官に手を出したとされる。
彼はその後パラグアイに足を踏み入れたことがなく、地元警察は今回の機会を狙い撃ちした。
 
 
8000ドルの保釈金を支払い、3か月おきに在アルゼンチンのパラグアイ領事館に出頭するという条件ですぐに釈放されたが、この程度の手続きで解放するのなら、身柄拘束は試合後でもよかったのではないかとの声もある。
レギュラーの彼が試合前に逮捕され、試合に起用できないかもしれないとの心配からリーベルには激震が走った。
地元のセロを有利にする作戦ではないかとの憶測もあった。
現在の日韓関係からすると、ACLで韓国へ行った選手が、過去の微罪で引っ張られるというケースも考えられる。
 
 
さて、試合のほうはセロが先制。
第1戦はリーベルが2-0で勝っているが、これでリードは1点となった。
勢いに乗るセロは猛攻を続ける。
しかし53分、前科持ちとなったデ・ラ・クルスが、その鬱憤を晴らすかのような豪快なミドルシュートを突き刺してセロの夢を砕いた。
 
 
これで準決勝に進出したリーベルだが、次の相手は昨年の決勝で大トラブルに発展したボカ。
再びの混乱を避けるため、ボンボネーラとモヌメンタルでなく、地方のスタジアムで行われる可能性もあるそうだ。