GW明けの5月8日、新型コロナの感染者が久しぶりに100人を下回った。
しかし日本よりはるかに早く、しかも厳しい外出禁止令を出したアルゼンチンは、同日の感染者が初の200人超えとなる240人を記録した。
こうなると巣ごもりの効果が疑わしくなるが、240人のうち207人がブエノスアイレス州で、首都であるブエノスアイレス市に130人と集中している。
特にビジャと呼ばれるスラム街に多いという。
 
 
このため8日、フェルナンデス大統領は10日までだった4回目の外出禁止令をブエノスアイレス州に限って24日まで延長する決定を下した。
それ以外の州については知事の判断に任せることとなったが、演説の中で、高齢者以外は外出自由のスウェーデンと外出規制を行っている隣国ノルウェーを例に出し、「スウェーデンの死者はノルウェーの14倍だ。今、経済活動を元に戻せば、スウェーデンと同じことになる」と、国による禁止令が解かれた州も引き続き警戒を続けるよう訴えた。
 
 
スウェーデンとノルウェーを引き合いに出したのは、多少は隣国ブラジルへ気を使ってのことだ。
アルゼンチンとブラジルのコロナ対策は、北欧2国のそれと同じ。
ブラジルは州によって規制しているところはあるものの、国策としては経済優先で外出フリー。
そしてその結果、8日の死者は過去最高となる750名以上となった。
これまでの死者は9,992人。
この1週間で感染者は92,109人から145,892人と約1.5倍に増え、世界の感染者ランキングでも10位から7位へと上昇している。 
 
 
これに対し、アルゼンチンは感染者5,598人で死者293人。
本来ならば、「全面解禁したらブラジルみたいになるぞ」といいたいところだが、外交儀礼で遠国の例を挙げるにとどめた。
 
 
WHOの指導に耳を貸さず、マスクも着けずに大衆を集めて州による規制の批判演説を行うボルソナロ大統領は、1日の死者が過去最高となった8日の金曜日に、「明日の土曜は30人呼んでバーベキューとサッカーをする」と公言。
しかし実際には行わず、何かと批判的なマスコミをからかっただけだった。
2週間ほど前には、「コロナによる我が国の死者がついに中国を上回ったが」という記者の質問に、「それが何か?」と他人ごとのように応えてもいる。
国民の生命より経済が大事という姿勢は、1ミリもブレていない。
 
 
同じく5月8日、アルゼンチンでは偉大な元サッカー選手が亡くなった。


”トリンチェ“と呼ばれたトーマス・カルロビッチだ。
74歳になったばかりの彼は、強盗に鈍器で頭部を殴られ帰らぬ人となった。
ロサリオで生まれ育ちプレーした彼は地元のヒーローで、晩年は自転車でロサリオ中を走り回り、人々から声をかけられたり車がクラクションで挨拶してくれることを楽しんでいた。
 
 
元代表でレアルマドリードのGMも務めたバルダーノは、現役時代のカルロビッチのプレーを“ロマンティックフットボール”と称している。
日韓W杯でアルゼンチン代表監督だったビエルサは、4年間に渡り毎週土曜日はカルロビッチを観にスタンドへ足を運んだという。
「ボールが彼を運んでいる」といわれるほど、そのドリブルはボールと一体となり、まるで芸術のように美しかったそうだ。
 
 
地元のセントラル・コルドバのファンだった彼は、ロサリオ・セントラルのユースとトップさらにもう1チームを経て、当時3部だったセントラル・コルドバに加入。
すぐさま2部昇格の原動力となった。
そして、1974年にはその名が全国区となる。
同年に行われる西ドイツW杯の準備のため、代表がロサリオ選抜とテストマッチを行った。
ロサリオ選抜のスタメンは、地元の2大クラブであるニューウェルスとロサリオ・セントラルから5人ずつ。
そして唯一2部のセントラル・コルドバからカルロビッチが選ばれた。
MFの彼は華麗なプレーでゲームの主役となり3-1の勝利に貢献。
しかしプレーは前半のみ。
なぜなら、代表のカップ監督が「あの選手を外してくれ」と要請し交代させられたからだ。
 
 
股抜きの名手で、瞬時に同じ選手の股を2度抜くという“ドブレ・カーニョ”は彼の代名詞。
ある試合では、怒り心頭に達した相手選手から手荒な反則を受けるまで、10分以上に渡って一人でボールをキープしていたという伝説がある。
また、彼に退場処分を下した主審が、カルロビッチを観に来た大観衆の抗議により、その裁定を取り消したこともある。
本人は退場を納得してピッチから退いたが、あまりのブーイングの凄さに驚いた主審が通路まで追いかけてきて、「行くな、退場じゃない」といって引き留めたそうだ。
 
 
「好きな金額を書いてくれ」と白紙の小切手を渡してペレを獲得し、ベッケンバウアーらのビッグネームを揃えたニューヨーク・コスモスやフランスのクラブからオファーがあるも、「オレにとってセントラル・コルドバでプレーすることは、レアルマドリードでプレーするのと同じだ」とクラブ愛を貫いて断ったという。
78年のW杯優勝監督メノッティから76年に代表候補として召集されたが、釣りに行くという理由でキャンプに参加しなかったというエピソードもある。
 
 
彼のプレーを直接知らなかったマラドーナは、93年にロサリオのニューウェルスに移籍したときに数々の伝説を聞き、「そんなにすごい選手だったのか」と再認識したと語っている。
そして今年2月、監督としてヒムナシアを率いてアウェイのロサリオ・セントラル戦に乗り込んだ時、二人の英雄が初めて対面した。
そこでマラドーナは、「あなたは僕よりすごかった」と書いたサイン入りユニホームを贈呈し、お互いを認め合った両雄の交流が始まった矢先の悲劇。


 
 
5月8日は、厄日だった。


About The Author

ホルヘ三村

ラテンのフットボールを愛し、現在はgol.アルゼンチン支局長として首都ブエノスアイレスに拠点を置き、コパリベルタドーレス、コパアメリカ、ワールドカップ予選や各国のローカルリーグを取材し世界のメディアに情報を発信する国際派フォトジャーナリスト。 取材先の南米各国では、現地のセニョリータとの密接な交流を企でては失敗を重ねているが、酒を中心としたナイトライフには造詣が深い。 ヘディングはダメ。左足で蹴れないという二重苦プレーヤーながら、美味い酒を呑むためにボールを追い回している。 女性とアルコールとフットボールの日々を送る、尊敬すべき人生の達観者。

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