8月のキリン・チャレンジカップの相手がウルグアイ代表と発表された。
 
ホルヘが初めてウルグアイ代表を観たのは、1985年のキリンカップだった。
 
この大会は実に豪華なもので、6チームが総当たりの後、1位と2位が決勝戦を戦うシステム。
 
しかも参加したのがサントス、ウエストハム、マレーシア代表、日本代表、読売クラブ(天皇杯覇者)、
 
そして翌年のW杯メキシコ大会出場権獲得一番乗りのウルグアイ代表だった。
 
 
 
当時は単なるサッカーファンだったホルヘは、当然スタンドからの観戦。
 
しかし年会費1万円の日本サッカー協会後援会会員だったので、入場料は必要なし。
 
そのため、ほとんどの試合に足を運んだ。
 
この頃のビッグゲームは首都圏で行われていたので、
 
そのあたりに住んでいれば、1万円の後援会費は確実に元がとれたものだ。
 
 
 
優勝は、決勝でウルグアイを破ったサントス。
 
しかしホルヘは、上手さとか強さでなく、「凄み」を感じさせたウルグアイに魅了された。
 
そして指導していた少年チームのユニホームを空色にし、
 
エンブレムの中にはウルグアイ国旗に描かれている太陽を入れた。
 
 
 
ちなみに日本代表はウルグアイに1-4で敗れたうえ、読売クラブの後塵を拝し5位に終わっている。
 
しかし96年に大阪で行われた親善試合では、5-3で勝って雪辱を晴らす。
 
この時期は、ファールへの警告や退場を厳しくするルール改正がたびたび行われ、
 
持ち味の「激しい守備」を封じられたウルグアイの低迷期といえる。
 
また、まだナシオナルに所属していたレコバなど、選手の多くが国内組の若手で、
 
格からいえばCチームといったところだった。
 
 
 
2003年の2-2は、観ていないから分からない。
 
さて、今回はどうなるか。もちろん、ホルヘはウルグアイを応援する。
 
 
 
この原稿を書いている17日、ウルグアイの主砲フォルランが結婚するというニュースが飛び込んできた。
 
自身のツイッターで今年中に結婚することを報告したのだ。
 
お相手は医大生にしてホッケーの同国代表選手でもある23歳のパス・カルドーソ。
 
今回は、無事にゴールインできるだろうか。
 
 
 
「今回は」と書いたのは、2011年には婚約者だったアルゼンチン人モデルのサイラ・ナラと破局したから。
 
コパ・アメリカ終了後に式を挙げる予定だったが、その40日前にフォルランから婚約を破棄している。
 
このため対戦相手のサポーターは、スタンドからこの件をからかっていた。
 
キリン・チャレンジにフォルランが来たら、「❤PAZ CARDOSO❤」のメッセージで祝福してもらいたい。
 
 

 

 

 
 
 
ホルヘ・ミム~ラ
ラテンのフットボールを愛し、現在はDieguitoアルゼンチン支局長として首都ブエノスアイレスに拠点を置き、コパリベルタドーレス、コパアメリカ、ワールドカップ予選や各国のローカルリーグを取材し世界のメディアに情報を発信する国際派フォトジャーナリスト。
取材先の南米各国では、現地のセニョリータとの密接な交流を企てては失敗を重ねているが、酒を中心としたナイトライフには造詣が深い。
ヘディングはダメ、左足では蹴れないという二重苦プレーヤーながら、美味い酒を呑むためにボールを追い回している。
女性とアルコールとフットボールの日々を送る、尊敬すべき人生の達観者。


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ラテンのフットボールを愛し、現在はgol.アルゼンチン支局長として首都ブエノスアイレスに拠点を置き、コパリベルタドーレス、コパアメリカ、ワールドカップ予選や各国のローカルリーグを取材し世界のメディアに情報を発信する国際派フォトジャーナリスト。 取材先の南米各国では、現地のセニョリータとの密接な交流を企でては失敗を重ねているが、酒を中心としたナイトライフには造詣が深い。 ヘディングはダメ。左足で蹴れないという二重苦プレーヤーながら、美味い酒を呑むためにボールを追い回している。 女性とアルコールとフットボールの日々を送る、尊敬すべき人生の達観者。

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