1978年に開催されたW杯アルゼンチン大会でのこと。
グループリーグ最終戦のフランス対ハンガリーで間抜けな出来事があった。
この試合では両チームとも、サブユニホームを着用するよう前もって通達されていた。
メインはフランスが青でハンガリーが赤だが、当時は世界的に白黒テレビが主流。
モノクロだと青と赤の区別がつかないからだ。
しかし、誰一人として両チームともサブが白だとは気づかなかった。
フランスとハンガリーは指示通りに、サブだけを持ってマル・デル・プラタのスタジアムに到着した。
そして、試合直前になって白対白であることが発覚。
もちろん、これでは試合はできない。
宿舎に取りに行っても間に合わない。
それどころか、バタバタしている間に予定のキックオフ時間は過ぎてしまっている。
結局、地元のキンベリーというクラブのユニホームをフランスが着て試合が行われた。
 
 
あれから40年前。
当たり前といえば当たり前だが、今のW杯はあの頃とは比較にならないほど拡大し組織化され独占化されている。
時代の進歩とともに大会も成長していくということだ。
しかし、以前の大会にはあった「親しみ」がなくなり、手の届かない遠い存在になったようで寂しさを感じる。
間抜けなエピソードがあるとかないとかでなく、人が運営しているという温かさが感じられないのだ。
 
 
いつの大会からか定かでないが、オフィシャルウォッチメーカーがW杯モデルを作って審判団に提供するようになった。
2006年ドイツ大会では、アルゼンチン人のエリソンドが開幕試合と決勝戦の笛を吹いた。
開幕を務めた主審が決勝も任されるのは史上初のことだった。
 
 
帰国後、テレビの企画でエリソンドは草サッカーの主審をすることになった。
ただの草サッカーではなく、悪名高きアパッチ砦対スラム街チーム。
アパッチ砦というのは、アルゼンチンで最も犯罪者が多く危険といわれている集合住宅群のこと。
国有地を不法占拠して住み着いていた人たちを収容するために建てられた団地のようなものだ。
正式名称は他にあるのだが、警察と住民が激しい銃撃戦をしたことで、「まるで、アパッチ砦だ」と呼ばれ、それが定着した。
テベスはここの出身なので、あだ名がアパッチになった。
 

※写真は実際にテベスが生まれたビル。
 
 
 
ここのチームと、同じような犯罪者の巣窟といわれるスラムチームを裁いたエリソンド。
試合中は特にトラブルもなく、試合後は両チームから感謝されてもみくちゃになった。
すると、「時計がない」とエリソンドの声。
わざわざ着けてきたW杯モデルが手首から消えている。
エリソンドは放送禁止用語を連発して激怒。
しばらくするとアパッチ砦の代表者がやってきて、「手癖の悪い奴が、つい習慣で掏っちゃったんだ。悪気はないから許してくれ」と時計を返して一件落着した。
しかしエリソンドをそれほど怒らせるほど、大会に参加した審判にとってW杯モデルの時計は大切なものなのだ。
 
 
この時計をありがたがるのは、W杯の審判ばかりではない。
大会終了後、個数限定で一般にも販売されるのだ。
ホルヘの審判仲間も何人かが購入した。
その審判仲間というのは、Jリーグなどを目指すレベルではなく、主に草サッカーを裁く草審判。
彼らにとっても、この時計を着けるのは誇りなのだ。
 
 
ロシア大会のオフィシャルメーカーHublotも大会モデルを制作して審判団に110個提供した。
開発に18ヵ月かけたというこの時計の売り物は、ゴールラインテクノロジーとの連動。
ゴールラインテクノロジーで得点が確認さえれば、すぐに振動して知らせる。
コロンビア戦で川島がセーブしたかに見えた際どい得点を、すみやかに認めたのはこの機能のおかげ。
たとえ5分おきに得点が決まっても、7時間機能する耐久性があるという。
 
 
そしてこの時計も、大会終了後に限定販売されるという。
値段は5000ユーロ。
草サッカーの審判に、ゴールラインテクノロジー機能がついた時計をどうしろというのか。
こうしてW杯は、また庶民から遠ざかっていく。


About The Author

ラテンのフットボールを愛し、現在はgol.アルゼンチン支局長として首都ブエノスアイレスに拠点を置き、コパリベルタドーレス、コパアメリカ、ワールドカップ予選や各国のローカルリーグを取材し世界のメディアに情報を発信する国際派フォトジャーナリスト。 取材先の南米各国では、現地のセニョリータとの密接な交流を企でては失敗を重ねているが、酒を中心としたナイトライフには造詣が深い。 ヘディングはダメ。左足で蹴れないという二重苦プレーヤーながら、美味い酒を呑むためにボールを追い回している。 女性とアルコールとフットボールの日々を送る、尊敬すべき人生の達観者。

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