前回に引き続きボクシングの話。
日本人初の世界チャンピオンは白井義男だ。
1951年、アメリカ人のタド・マリノからタイトルを奪取した。
終戦後のアメリカ統治下だったので、単に世界王者になったというだけでなく、
「アメリカを倒した」ということで国民は熱狂した。
まだチャンネルや番組が少ない時代ではあったものの、
彼の最後の試合の視聴率は96.1%だったという。
白井さんが亡くなる1年ほど前、酒席を共にしたことがある。
我々が行きつけの店で吞んでいると、一人でフラリと入ってきた。
ホルヘの地元に設立した、白井・具志堅ジムの帰りらしい。
「アッ、白井さんだ」と気づき、図々しく話しかけたら、
「こっちへきて、一緒に吞もう」と誘ってくれた。
彼はアルゼンチンに縁がある。
最後の試合は、前年に王座を奪われたアルゼンチン人のパスクアル・ペレスとの
リターンマッチだった。
そしてタイトルを失う前にも、アルゼンチンでぺレスと戦っている。
ぺレスは48年のロンドン五輪の金メダリストで、プロ転向後18連勝と破竹の勢い。
しかし白井さんとは引分けて、連勝記録はストップ。
会場となったのはルナパーク。
ボクシングの殿堂だが、コンサートやタンゴフェスティバルでも使われている。
日本大使館はルナパークの隣に建つ緑の高層ビル内にあるので、
アルゼンチンに旅行中に大使館へ行く用ができたら、「ルナパーク、ルナパーク」と訊けば、
誰でも教えてくれる。
白井さんがぺレスとの初戦の話をしていたとき、
「えーと、あの大きくて立派な会場はなんだったけ」と度忘れしたので、
「ルナパークですね」と助け舟を出したら、「なんでそんなこと知ってるんだ」と驚いていた。
その後日本でぺレスに敗れてタイトルを失い、リターンマッチにも失敗して引退。
この2連敗のうちどちらの試合か不明だが、高齢の日本人移民から面白い話を聞いた。
この人は子供のころアルゼンチンへ渡り、試合のときは小学生だったという。
当時のアルゼンチンは一等国。
相次ぐ大戦で世界的な食糧不足の中、豊富な農作物や牛肉を輸出し大儲けした。
それに対し日本は敗戦国。
ましてや遠いアジアの国の実情など知る由もなく、日本のことを下等な国と見下していた。
ぺレスが白井に勝ったというニュースが伝わると先の日本人は、
「日本は弱い、日本はダメな国だ」とクラスでいじめられたという。
しかし、ぺレスが帰国して様子は一変。
マスコミに引っ張りだこの彼は、
「日本は素晴らしい国だ。電車は時刻通りに来るし、人々は勤勉で親切。すぐに敗戦から立ち直るはずだ」と
日本をべた褒め。
オリンピックの金メダリストとしてすでに国の英雄であったぺレスの言葉だけに重みがある。
それ以降、アルゼンチン人の日本に対する印象は変わったという。