「コパ・アメリカにやってきた」の回で、苦労して取材パスを取ったものの、
ピッチへ入る段になって「それは記者席用のパスだ」と止められ、
会場責任者と話して、パスの担当者が間違えて渡したのだろう、
という結論に達し、無事中へ入れたと書いた。
しかし、それが担当者ハビエルの間違いでなかったことがわかった。
チリ対ペルーの準決勝を前に、取材許可者のリストが発表された。
ホルヘの名前はあったが、「ピッチ内カメラマン」は7枚のリストの最後の方なのに、
ホルヘはもっと前の方に載っている。
パスを取りに行くと、やはり記者席のパスだった。
「俺はカメラマンだ。ピッチのパスをくれ」といっても、
「ピッチは満員で、もうパスはありません」と答えるだけ。
相手はボランティアの女性なので、何も決定権は持っていない。
そこで、ハビエルを呼んでもらうことにした。
そして、交渉の結果パスの入手に成功したが、
当初は記者席に追いやられていたことがはっきりした。
これはおそらく、フリーランスだから評価が低いのだろう。
リストを見ると、カメラマンはすべてどこかの所属になっていて、フリーランスはホルヘだけ。
南米の取材申請の多くは、新聞社や出版社などの会社が申請するようになっている。
その場合フリーの人間は、仕事をする出版社に依頼し、そこから申請してもらう。
ホルヘもこれまではそうしていた。
しかしこのコパ・アメリカは、フリーでも申請できるようになっていた。
それならば、出版社の手を煩わせるよりも個人で申請したほうがいいと思ったのだが、それが裏目に出た。
アルゼンチンからは多くのカメラマンが来ているし、チリは地元だ。
このままでは、決勝戦のピッチパス取得はまず不可能。
記者席にすら入れないかもしれない。
そこでリストが作成される前に、ハビエルに直談判することにした。
リストは金曜日に発表されるので、水曜日に乗り込んだが、ハビエルは不在だった。
しかし、用意は万端。こんなこともあろうかと、手紙を用意していたのだ。
まずは、89年ブラジル、93年エクアドル、95年ウルグアイ、99年パラグアイ、
01年コロンビア、04年ペルー、07年ベネズエラ、11年アルゼンチン、そして今回と、
南米全10カ国で開催されたコパ・アメリカを取材した実績を披露。
そして前回アルゼンチンまで、すべての決勝戦でピッチパスを得たことを強調。
これは、「チリだけが出さないのはマズイ」と思わせるためだ。
ここで謙遜などしていられないので、ホルヘは日本における南米サッカーの第一人者だ、とも書いた。
また、フリーランスではあるが、多くの顧客を持っている。
彼らはホルヘの写真を待っている、とここは少し大げさに記す。
さらに、日本代表とチリ代表のテストマッチの際には、チリのカメラマンや記者をいろいろと助けた、
と恩着せがましいことまで書いた。
そして、無理を言って申し訳ない。
たくさんのカメラマンがパスを希望することはわかっているが、どうかピッチのパスを渡してください、と結んだ。
この手紙を、金魚をデザインした巾着袋に入れた。
これはもちろん、賄賂効果を狙ってのものだ。
明らかな贈り物を付けるのはあざといし、手紙を託する人にも不審がられてしまう。
しかし巾着袋なら、封筒代わりということになる。
そして、手紙を託す人にも和柄の小銭入れを用意した。
顔見知りなった警備担当のおばちゃんに、「これをハビエルに渡して。中に大事な手紙が入っているから」と頼み、
小銭入れを渡すと大喜び。
この巾着と小銭入れは、原宿の百均ダイソーで買ったもの。
そして、運命の金曜日。リストを開き上から順に目を凝らしていくが、ホルヘの名前はない。
記者席の欄が終わり、いよいよピッチ内カメラマンの欄になった。
ここまで名前がないということは、ピッチ内か、あるいは記者席にも入れないということだ。
ドキドキしながら下へ移動していくと、カメラマンの最後の最後にホルヘの名前があった。
これはもう、手紙と巾着の効果だろう。
パスを受け取った後、警備のおばちゃんに、「ありがとう、あなたのおかげでパスが取れたよ」と告げると、
「これ、もらったからね」とポケットから、早速使っている小銭入れを出した。
海外旅行に行く人には、このようなものをいくつか持って行くことを薦める。
仲良くなった人にあげるのはもちろんだが、ホテルなどで何かを頼むときや助けてもらったときに渡せば、
1ドル以下の品物ながら、1ドルのチップとは比較できない効果を発揮する。
肝心の決勝戦はチリがPK戦でアルゼンチンを下し初優勝に輝いたが、ここでは詳細は書かない。
下記のウェッブにホルヘの記事が載っているので、興味のある方はどうぞ。
http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/wfootball/world/