アルゼンチン代表の新監督 ホルヘ三村 2017年5月26日 アルゼンチン, ホルヘ・ミム〜ラ アルゼンチン代表の新監督には協会の希望通り、セビージャFCを率いていたホルヘ・サンパオリが就任することになった。 セビージャとは2年契約で当初は本人も残留で固まっていたが、記者会見で「他のクラブへ行くためにセビージャを去るのとは違う。母国の代表から請われれば、断り切れない」と悩みぬいた末での決断であったことを吐露していた。 彼はプロ選手としての実績はなく、アマチュアチームに所属していた19歳のときに負傷により選手の道をあきらめた。 その後、指導者の修行を積み34歳でアマチュアチームの監督となり、プロの下部リーグへと進んでいった。 2000年代初頭からは、活動の場所をペルーに移す。 この時期はアルゼンチン経済が破たんし、下落が止まらないペソを得るより、国外でドルを稼いだほうがはるかに得だったので、サンパオリがペルーへ行ったのもそうしたことが理由だったのかもしれない。 ペルーでは1部リーグの4チームを率い、その最後がコロネル・ボロネッシ。 ここには、その後、柏レイソルに入る澤がいた。 彼のことはアルゼンチン時代(リーベルのユースでプレーしていた)から知っていたので、取材でこのクラブを訪ね、そこでサンパオリにも会っている。 アウェイのアリアンサ・リマ戦に行くと、クラブのスタッフが、「この辺りは非常に危ない地域なので、試合後はチームバスで一緒に帰ろう」と親切に誘ってくれた。 お言葉に甘えて試合後バスに乗ると、サンパオリから「部外者は乗せない。降りてくれ」といわれた。 マスコミはもちろん、選手の家族ですら乗せないのだそうだ。 信念が硬いというか、几帳面できっちりした性格だと感じたものだ。 澤によると、練習でも妥協を許さず、戦術を徹底的に叩き込むのだという。 2010年にはエクアドルのエメレックを率いて好成績を上げる。 6月には国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)による月間ベストクラブに選ばれた。 エクアドルのサッカーが、どんなことであれ世界一になるのはこれが初めてのことなので、サンパオリへの評価は一躍高まった。 その後はチリのウニベルシダ・デ・チレをリーグ3連覇とコパ・スダメリカーナ王者に導き、チリ代表監督に就任。 そして2015年のコパ・アメリカで初優勝の快挙を遂げ、翌年の100年記念大会も連覇した。 19歳で引退を余儀なくされた少年が、ここまで登りつめたのだ。 サンパオリは「ロコ」(クレイジー)と呼ばれるビエルサの信奉者だが、彼自身も相当変わっているようだ。 コパ・アメリカの決勝戦でベンチに入ってきた彼を見ていると、テレビ中継用の集音マイクを遠くへ運び、マイクの方向も変えてしまった。 コーチングの声を聴かれたくないからだが、テレビ局はたまったものではない。 代表は6月9日と13日にブラジル、シンガポールとテストマッチを行い、それがサンパオリの初仕事。 召集リストにはこれまでとかなり違う名前が入っており、新チームがどのようなスタートを切るのか、興味が持たれている。 Tweet