アルゼンチン代表の新監督には協会の希望通り、セビージャFCを率いていたホルヘ・サンパオリが就任することになった。
セビージャとは2年契約で当初は本人も残留で固まっていたが、記者会見で「他のクラブへ行くためにセビージャを去るのとは違う。母国の代表から請われれば、断り切れない」と悩みぬいた末での決断であったことを吐露していた。
 
 
彼はプロ選手としての実績はなく、アマチュアチームに所属していた19歳のときに負傷により選手の道をあきらめた。
その後、指導者の修行を積み34歳でアマチュアチームの監督となり、プロの下部リーグへと進んでいった。
 
 
2000年代初頭からは、活動の場所をペルーに移す。
この時期はアルゼンチン経済が破たんし、下落が止まらないペソを得るより、国外でドルを稼いだほうがはるかに得だったので、サンパオリがペルーへ行ったのもそうしたことが理由だったのかもしれない。
 
 
ペルーでは1部リーグの4チームを率い、その最後がコロネル・ボロネッシ。
ここには、その後、柏レイソルに入る澤がいた。
彼のことはアルゼンチン時代(リーベルのユースでプレーしていた)から知っていたので、取材でこのクラブを訪ね、そこでサンパオリにも会っている。
 
 
アウェイのアリアンサ・リマ戦に行くと、クラブのスタッフが、「この辺りは非常に危ない地域なので、試合後はチームバスで一緒に帰ろう」と親切に誘ってくれた。
お言葉に甘えて試合後バスに乗ると、サンパオリから「部外者は乗せない。降りてくれ」といわれた。
マスコミはもちろん、選手の家族ですら乗せないのだそうだ。
信念が硬いというか、几帳面できっちりした性格だと感じたものだ。
澤によると、練習でも妥協を許さず、戦術を徹底的に叩き込むのだという。
 
 
2010年にはエクアドルのエメレックを率いて好成績を上げる。
6月には国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)による月間ベストクラブに選ばれた。
エクアドルのサッカーが、どんなことであれ世界一になるのはこれが初めてのことなので、サンパオリへの評価は一躍高まった。
 
 
その後はチリのウニベルシダ・デ・チレをリーグ3連覇とコパ・スダメリカーナ王者に導き、チリ代表監督に就任。
そして2015年のコパ・アメリカで初優勝の快挙を遂げ、翌年の100年記念大会も連覇した。
19歳で引退を余儀なくされた少年が、ここまで登りつめたのだ。
 
 
サンパオリは「ロコ」(クレイジー)と呼ばれるビエルサの信奉者だが、彼自身も相当変わっているようだ。
コパ・アメリカの決勝戦でベンチに入ってきた彼を見ていると、テレビ中継用の集音マイクを遠くへ運び、マイクの方向も変えてしまった。
コーチングの声を聴かれたくないからだが、テレビ局はたまったものではない。
 
 
代表は6月9日と13日にブラジル、シンガポールとテストマッチを行い、それがサンパオリの初仕事。
召集リストにはこれまでとかなり違う名前が入っており、新チームがどのようなスタートを切るのか、興味が持たれている。
 


About The Author

ホルヘ三村

ラテンのフットボールを愛し、現在はgol.アルゼンチン支局長として首都ブエノスアイレスに拠点を置き、コパリベルタドーレス、コパアメリカ、ワールドカップ予選や各国のローカルリーグを取材し世界のメディアに情報を発信する国際派フォトジャーナリスト。 取材先の南米各国では、現地のセニョリータとの密接な交流を企でては失敗を重ねているが、酒を中心としたナイトライフには造詣が深い。 ヘディングはダメ。左足で蹴れないという二重苦プレーヤーながら、美味い酒を呑むためにボールを追い回している。 女性とアルコールとフットボールの日々を送る、尊敬すべき人生の達観者。

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