1980年代から90年代半ばまで、海外旅行の必需品といえばトラベラーズチェック(旅行小切手)だった。
知らない人のために説明すると、これは10ドル、20ドル、50ドル、100ドルなどの額面が印刷された小切手で、円相場の価格で購入する。
それぞれの小切手にはナンバーが記されている。
ドル以外にも、世界の主要通貨がある。
 
 
小切手には上段と下段に署名欄があり、購入者はすべての小切手の上段に署名する。
海外のショップで何かを購入する際は、相手の前で下段に署名すればそれでOK。
小切手は現金と同様のものとなり、おつりも受け取れる。
現地通貨のトラベラーズチェックがない場合は、銀行や両替屋でサインすれば、現地通貨に換えてくれる。
 
 
この小切手の最大のメリットは、盗難にあったり紛失した場合、小切手ナンバーの控えを提出すれば再発行してくれること。
発行元はアメリカン・エクスプレスとシティコープで、この両者は世界中に支店や代理店を持っている。
そこへ持ち込めば即再発行してくれるのだ。
現金は紛失したら終わりだが、トラベラーズチェックはすぐ再入手可能なのだ。
さらに、購入や両替の際のレートが現金より若干有利でもある。
 
 
このように旅行者にとって非常に便利なものなので、「現金とトラベラーズチェックを半分ずつ持っていく」というのが海外旅行の常識と化していた。
しかし、その後カードが普及したためトラベラーズチェックは衰退し、日本では2014年に発行が停止された。
 
 
亡父のタンスを整理していたら、トラベラーズチェックが出てきた。
海外旅行に行ったときの使い残りだ。
シティ発行の50ドル1枚と、アメックス発行の500フランス・フラン3枚。
もちろん、上段にはサインが入っている。
はたしてこれが換金できるのか。
今やフランスの通過はユーロで、中央銀行ですらフランとユーロの換金はすでに中止したはず。
 
 
とりあえずアメックスのウェッブを開くと、トラベラーズチェック担当の電話番号があったので、そこへ電話した。
すると出てきたのは、外国人女性。
日本語で話してくれるが、これが何とも頼りない。
面と向かって話せばお互いの表情を読み取ることができるが、電話ではそうはいかない。
アクセントがおかしいので何度も聞き直したり、相手にわかりやすい言葉を選んで話すなど、余計な手間がかかった。
しかしホルヘもアルゼンチンでは電話で苦労することが多々あるので、協力的に受け答えした。
 
 
名義人が死亡の場合は、「ソーゾクニンサマ」の口座に振り込むという。
どうやら、すんなり換金できるようだ。「ホンニンカクニンノタメ」とかで、ホルヘの免許証番号とパスポート番号を伝える。
しかし、これでホルヘが相続人であることがわかるのだろうか。
この疑問をぶつけると、電話でその確認はできないので、できないことはしないとの説明。
そして、トラベラーズチェックに「VOID」と記入し、それを破ったものを写真に撮ってメールで送れとのこと。
写真が届いてから10日以内に、ホルヘの口座へ振り込むという。
 
 
すぐさま写真を送信したものの、アドレスが間違っていて送れない。
再び電話すると、「シャシン、オクラナイデクダサイ」と話が急転。
「では、何をすればいいのか」と問うと、「ナニモシナイデクダサイ。トーカイナイニフリコミマス」という。
 
 
ところが30分後に彼女から電話があり、戸籍謄本と死亡証明書、小切手などの書類を送れといってきた。
何もしないでいいと言ったばかりではないか。
さらに、全部事項記載の戸籍謄本には「死亡・除籍」と記されているので、死亡証明など不要のはず。
 
 
彼女との電話では埒が明かないため、戸籍謄本を持って荻窪の本社へ乗り込んだ。
しかしそこにトラベラーズチェックの部署はなく、現在その対応は電話のみで行っているとのこと。
それでもクレーム担当者らしき人がこれまでのいきさつを聞いて、別の担当者と電話で話してくれた。
この結果、ホルヘの元にメールが届き、簡易的な相続手続きを行って、後日振り込まれることとなった。
 
 
一方50ドルを発行したシティは、すでに日本から撤退している。
その業務はSMBC信託銀行プレスティアが引き継いだというので、渋谷の支店を訪ねた。
ところがトラベラーズチェックについては関与していないという。
そして、「直接、こちらへかけてください」とアメリカの電話番号が渡された。
話が大変なことになってきた。
相続手続きはアメリカの法律が適用され、書類も英語で作成しなければならないのかもしれない。
翻訳を頼んだら、50ドルの何倍もかかってしまう。
 
 
知人の元銀行員が、「トラベラーズチェックはもはや希少価値があるだろうから、古銭屋に持ち込んだら」とアドバイスしてくれた。
なるほど、と思い古銭屋に問い合わせたものの、扱っていないとの返事。
こうして、この小切手は宙に浮いてしまった。
ホルヘが南米で父のサインを模倣して使う方法もあるが、記念品として残しておこう。


About The Author

ラテンのフットボールを愛し、現在はgol.アルゼンチン支局長として首都ブエノスアイレスに拠点を置き、コパリベルタドーレス、コパアメリカ、ワールドカップ予選や各国のローカルリーグを取材し世界のメディアに情報を発信する国際派フォトジャーナリスト。 取材先の南米各国では、現地のセニョリータとの密接な交流を企でては失敗を重ねているが、酒を中心としたナイトライフには造詣が深い。 ヘディングはダメ。左足で蹴れないという二重苦プレーヤーながら、美味い酒を呑むためにボールを追い回している。 女性とアルコールとフットボールの日々を送る、尊敬すべき人生の達観者。

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