コパ・アメリカ開幕直前、セルヒオ・ヘンデレルというアルゼンチンのサッカージャーナリストが闘病の末に亡くなった。
53歳の若さだった。
アルゼンチン協会は彼の死を悼み、コパ・アメリカ初戦のコロンビア戦で、キックオフ前に黙とうを捧げた。
 
 
著名なジャーナリストとはいえ、まだ53歳の中堅。
日本だったら、このレベルの記者の死にいちいち対応はしないだろうな、と思った。
メディア関係で日本協会が哀悼の意を示すのは、殿堂入りの牛木さんやFIFAから特別表彰された賀川さんクラスだろう。
 
 
そんなことを思っていたら、日本代表が第2戦のウルグアイ戦で喪章を着けている。
アルゼンチンのテレビ放送ではその件に触れなかったか、あるいはホルヘが聞き漏らしたか、とにかく誰のための喪章かわからなかった。
現職や元職の協会幹部、もしくはメキシコ五輪銅メダルメンバーの誰かがなくなったのかと推測し、日本のスポーツ紙の電子版をサラッとチェックしたが訃報は見つからない。
そして10日ほど経って、亡くなったのが北山朝徳さんだと知って愕然とした。
 
 
北山さんとは年に1~2回会っていた。
冗談がきつい人で、本当なのか冗談なのかわからないことをよくいい、戸惑わされることがしばしばあった。
彼が創業したTOSHIグループの社長のデスクには、「禁煙」のプレートが置かれてあるが、それもジョークのひとつ。
ホルヘが行くと、「ほれ」とクリスタルの大型灰皿を引き出しからだし、タバコも勧めてくれた。
自らがヘビースモーカーなのだ。
 
 
数年前、ホルヘのアミーゴが肺がんで他界した。
それにショックを受け節煙したことがある。
そんなときに北山さんのオフィスを訪ねその旨伝えると、「ワシは死ぬまでタバコはやめん。タバコ吸わんでも、死ぬときは死ぬからの」と広島弁で語り、豪快に吸い出した。
その潔さと勢いに、ホルヘは差し出されたタバコに手を出して節煙は終わった。
そして、北山さんの死因も肺がんだった。
 
 
日本からの手土産に佃煮を持っていったら、すごく喜ばれた。
それから佃煮が定番となり、今年も今半の佃煮を購入した。
牛肉の国アルゼンチンに、あえて牛肉の佃煮を持っていく。
食材は同じでも調理法が異なると全く別のものになる。
広島の豊島育ちゆえ、定番の魚介類の佃煮も好きだったが、牛肉のそれも気に入っていたようだった。
ただ、今年の今半の佃煮は、まだホルヘの家にある。
賞味期限が11月なので、「ついでのときに持っていけばいいや」と思いそのままになっていた。
電話やメールでの連絡もしなかったので、体調を崩していることすら知らなかった。
こちらに着いてすぐ挨拶に行けば会えたのだと思うと、悔やまれてならない。
 
 
北山さんは日本サッカー協会の国際委員だが、その存在は一般にはほとんど知られていない。
そもそも国際委員という役職が協会にあることさえ、普通のサッカーファンは初耳だろう。
国際委員とは、いうなればサッカー界の外交官か大使といったところ。
外国に暮らし、その国の協会と日本協会の関係を密にして親善を推進する。
 
 
彼が日本協会と関係を持ったのは、1978年にアルゼンチンで開催されたW杯でのこと。
日本から協会関係者ら約50名が観戦に訪れ、加茂周さんの兄との縁からその一行の面倒を見たのがきっかけ。
決勝戦のチケットが足りないという事態になった一行から相談され、アルゼンチン協会の大物と談判してチケットを入手。
それで、当時専務理事で後に会長となる長沼健さんから以降も協力してくれるよう頼まれたのだという。
 
 
しかし、彼はサッカー界には素人だった。
決勝のチケットを手に入れられたのも、その後日本と南米の橋渡し役となれたのも、W杯以前にたまたまグロンドーナと知り合っていたから。
グロンドーナといえば、79年から2014年に亡くなるまでアルゼンチン協会の会長に君臨し、FIFAの副会長でもあった南米サッカー界の妖怪。
 
 
この大立者と知己の関係にあったことが北山さんの人生を変える。
初仕事は79年のジャパンカップ(キリンカップの前身)にサンロレンソを送ることだったが、グロンドーナが大きくなるに伴いそのスケールがアップ。
アルゼンチン代表を派遣し、南米連盟にもコネクションを築いて99年のコパ・アメリカ・パラグアイ大会に日本を参加させ、2002年W杯招致では南米票を取りまとめ、スルガバンクカップの設立にも一役買っている。
日本協会の国際委員の中でも、これほど日本サッカー界に貢献したものはいない。
 
 
11年にアルゼンチンで開催されたコパ・アメリカにも日本は招待されていた。
しかし、東日本大震災の影響で出場辞退となった。
開幕中のJリーグからトップ選手を召集できず、チームが作れないというのが理由だった。
北山さんはこの決定には不満だったようだ。
「主催者の南米連盟が、どんなチームでもいい、ユース選手が入っていても構わないといってくれているのに、なんで断るんだ」とホルヘに愚痴をこぼしていた。
自分のお膝元で日本代表が戦うという夢が実現しかけながら頓挫したことが悔しかったのだろう。
 
 
しかし意外にも北山さんはサッカー好きではなく、むしろ嫌いだった。
「サッカーは観ていてもつまらん。(日本)協会の人がいるときはしかたないから付き合うが、本当はスタジアムまで行って観たくない」と何度かホルヘに語っていたものだ。
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About The Author

ラテンのフットボールを愛し、現在はgol.アルゼンチン支局長として首都ブエノスアイレスに拠点を置き、コパリベルタドーレス、コパアメリカ、ワールドカップ予選や各国のローカルリーグを取材し世界のメディアに情報を発信する国際派フォトジャーナリスト。 取材先の南米各国では、現地のセニョリータとの密接な交流を企でては失敗を重ねているが、酒を中心としたナイトライフには造詣が深い。 ヘディングはダメ。左足で蹴れないという二重苦プレーヤーながら、美味い酒を呑むためにボールを追い回している。 女性とアルコールとフットボールの日々を送る、尊敬すべき人生の達観者。

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