(前回からの続き)
日本サッカー協会の国際委員として日本と南米の橋渡しを担っていた北山さんだが、その働きは協会関係だけに留まらなかった。
Jリーグ初代得点王のラモン・ディアスや、人気者となったモネールなど、日本でプレーしたアルゼンチン人選手の大半が北山さんルートによるものだった。
ラモン・ディアスという大物を引っ張って来たこと、そしてそれに伴いリーベルと密接な関係を築いたことにより、その後、メディナ・ベージョ、サパタ、ビスコンティ、ゴロシート、アコスタらのアルゼンチン代表選手がJリーグ創成期を彩ることとなる。
 
 
30人以上を紹介したという北山さんが最初に手掛けた選手は、1986年のホルヘ・アルベーロ。
横浜フリューゲルスの前身で、当時はアマチュアの日本リーグ2部だった全日空サッカークラブが、86年メキシコW杯で優勝したアルゼンチンから選手を獲得することを決め、その手伝いをしたのが初めだったという。
ホルヘ(登録名)は期待通りの活躍で1部昇格に貢献。
それにより他のクラブからも選手獲得についての多くの相談が持ち込まれるようになった。
いわゆる代理人でもなくサッカーには素人の北山さんは単に仲介の労を取っただけながら、日本サッカーのレベルアップに必要な各クラブの強化にも貢献していた。
 
 
そしてマスコミ関係者も北山さんから多大な恩恵を受けていた。
老舗サッカー雑誌はカメラマンを紹介してもらい情報を送ってもらい、大手新聞社も南米取材の際には北山詣でが欠かせない。
トヨタカップにアルゼンチンのチームが出場する場合は、日本のテレビクルーが彼の助力を仰いでいた。
 
 
マスコミの端くれであるホルヘも同様かというと、それがそうでもない。
「南米サッカーの取材をしよう」と思ったとき、もちろん北山さんの存在は知っていたし彼にお願いすれば楽なこともわかっていた。
しかし、「北山さんを頼れば、他のマスコミと同じになってしまう。北山さんとは接触しないようにしよう」と決めた。
ようするに、独自路線で行こうということだ。
しかしこれが自分の中で変な風に膨らんで、いつの間にやら「アンチ北山」みたいな感じになってしまった。
二度ほどニアミスしたが、意図的に顔を合わせず無視を貫く。
歪んだライバル心により、「挨拶したら負けだ」と思っていた。
彼もホルヘのことは薄々認識していたようだが、「雑魚は相手にしない」という態度だった。
 
 
そんなある日、飲み仲間であった大手商社の駐在員が帰国することとなり、プライベートな送別会に誘われた。
ところが土壇場になり、その会へ北山さんが来ることを知った。
送別会の主役が北山さんに可愛がられており、その会は北山さんのゴチだという。
慌てて、「じゃあ、行かない」と断ったが、事情を知っている同会への参加者から、「これを機に挨拶してさっぱりしたら」と諭された。
「なるほど」とその言葉に従い出席し、これまでの状況を説明し、挨拶もしなかった非礼を謝罪。
北山さんはまさに竹を割ったような性格のうえ、ホルヘの初心について「その意気や由」と思ってくれたようで、すんなりと受け入れてくれた。
 
 
2013年、あるサッカー雑誌から、「試合前の禁欲は是か非か」というテーマで有名監督のインタビューをしてくれ、との依頼が来た。
早速、以前に独自ルートで接触し、ホルヘの自宅まで来てもらってインタビューをしたペケルマンに連絡した。
しかしその時期はすでにコロンビア代表監督に就任しており、「個別の取材には応じられない」と断られてしまった。
 

 
 
そこで、86年W杯優勝監督のビラルドが、「セレナーデは長い、トランペットは大事にせよ」(人生は長いのだから、若いうちにやりすぎるなという意味)との名言を残したことを思い出した。
医師の資格を持つ彼は禁欲信奉者だ。
このテーマに、これほどの適任者はいない。
 
 
そこでコンタクトを取るために頼ったのが北山さん。
ビラルドは79年にサンロレンソがジャパンカップ(現キリンカップ)に参加した時の監督で、北山さんもツアーに同行した縁で仲良くなったという。
W杯優勝直後にビラルドにインタビューしようとした日本人記者から許可が取れないと泣きつかれ、本人への電話一本で実現させたというのは、北山さんの自慢話の十八番。
是非それをホルヘにもお願いしたいと頼むと、「お安い御用」とばかりに繋いでくれた。
 
 
ワールドサッカーグラフィックの元編集長N氏が、独立してフットボールライフ・ゼロなる雑誌を立ち上げた。
雑誌とはいえ、発行部数も少なく、儲けは度外視で作りたいものを作るといった趣味的要素の強いものだった。
N氏と付き合いの古いホルヘも創刊号から執筆に参加し、第2号の取材ターゲットを北山さんに決めた。
それまでに雑談で聞いていた話がとにかく面白いし、日本サッカー界の歴史にかかわるような裏話が山ほどある。
彼が日本を飛び出したいきさつや、闇稼業をしていたことなどエピソードも豊富。
これを記事にしない手はない。
 
 
しかし北山さんは表に出ることや目立つことが嫌いで、これまでほとんど取材を受けていない。
受けたとしても、国際委員という立場でのみだ。
したがって、プライベートを含めた半生を記事として紹介したいと申し入れても、頑なに断られた。
それでもあきらめず何度もお願いし、最後には、「こんな雑誌、誰も読みませんから」などとN氏に大変失礼なことまでいって、何とか口説き落とした。
 
 
それが10年前の2009年のこと。
北山さんとお付き合いをするようになって間もなくのことだ。
先日N氏に連絡すると、若干在庫が残っているとのこと。
日本サッカー界の功労者である北山さんに興味を持たれ、もっと彼のことを知りたいと思う方は、下記アドレスからご注文いただき、その足跡を偲んでいただきたい。
合掌。

>>> フットボールライフ・ゼロ Vol. 2 <<<


About The Author

ラテンのフットボールを愛し、現在はgol.アルゼンチン支局長として首都ブエノスアイレスに拠点を置き、コパリベルタドーレス、コパアメリカ、ワールドカップ予選や各国のローカルリーグを取材し世界のメディアに情報を発信する国際派フォトジャーナリスト。 取材先の南米各国では、現地のセニョリータとの密接な交流を企でては失敗を重ねているが、酒を中心としたナイトライフには造詣が深い。 ヘディングはダメ。左足で蹴れないという二重苦プレーヤーながら、美味い酒を呑むためにボールを追い回している。 女性とアルコールとフットボールの日々を送る、尊敬すべき人生の達観者。

Related Posts