1995年、エクアドルでU-17W杯が開催された。
日本も出場し、メンバーには小野、稲本、酒井、高原など、のちに”黄金世代“と呼ばれる選手が名を連ねていた。
当時はすでに2002年W杯の日本招致が決まっていたため、そのアピール活動ということで、大会前の春休みにブラジル、ペルー、エクアドルを巡る南米合宿を行った。
その時点では、日本サッカー協会史上、もっともお金を使ったユース代表だったそうだ。
ホルヘはこの合宿のエクアドル部分に密着した。
現地にはいろいろとパイプがあったので、代表チームの団長に協力を申し入れ、行動を共にすることができた。
 
 
ホルヘがエクアドルに初めて行ったのは91年の11月から翌年の4月ころまで。
3か月ほど首都のキトに滞在後、最大の経済都市グアヤキルを訪ねた。
すでにキトで全国紙Diario Hoyの記者と知り合いになり、グアヤキルの編集部を紹介され、ホテルはそこが予約してくれた。
そしてそのホテルの近くで首絞め強盗に襲われてしまった。
現金はわずかながら、時計とコンパクトカメラも奪われたので、保険金請求の手続きに必要な書類を作成してもらおうと、警察署へ出向いた。
 
 
すると担当者が、「今は忙しい」とか「書類がたくさんたまっている」などと話し始めた。
一体何をいっているのか理解できずにポカーンとしていると、彼は同じことを繰り返す。
それでも「????」でいると、そのやりとりを見ていた同僚がクスクス笑いだした。
すると担当者は「こっちに来い」とホルヘを同僚たちから引き離し、「書類を作ってほしければ金を払え」といってきた。
要するに、「忙しい」などとグダグダいっていたのは、賄賂の要求だったのだ。
現地の人はすぐに察して、パッと渡すところが、この鈍い外国人は全然理解していない。
同じことをやって稼いでいる同僚は、担当者の悪戦苦闘を見て面白がっていたのだ。
 
 
結局、なにがしかのお金を払って書類をゲット。
そしてその話をDiario Hoyの編集部ですると、「残念ながら犯罪や賄賂はエクアドルでは日常茶飯事だ。しかし外国人が強盗に遭った後、警察で賄賂まで要求されたら、エクアドルとは何て酷い国だと思ってしまう。その警官は許せない」ということで記事になった。
そして、その記事が港町マンタに住む日本人の菅原さんの眼に留まる。
彼は漁業関係の仕事で成功した人物で、翌年からグリーンクロスという1部リーグ所属のサッカークラブで会長を務める。
そのときに監督として招いたのが、後にエクアドル代表も率いたセビージャ。
菅原さんが記事を頼りにホルヘを探してコンタクトが取れるようになり、93年にはセビージャを伴ってトヨタカップ観戦にやって来た。
ホルヘは彼らが滞在中のガイド役となり、いくつかのJクラブへ連れて行った。
 
 
U-17代表の合宿では菅原さんがいろいろとサポートし、当時、名門リーガ・デ・キト(2008年世界クラブ選手権出場)の監督だったセビージャの口利きで、同クラブユースチームとの練習試合も行った。
ホルヘも選手の買い物に付き合うなどして仲良くなったが、悔やむべきは高原への対応だった。
当時彼はサブの選手で、本大会でも16番を着けていた。
レギュラーのCFは実績があり華もあり話も面白い。
ということで、ホルヘはこのレギュラーCFに肩入れし、高原のことはほぼ無視という状態だった。
もしこのときに良好な関係を築いていたら、後年、彼がボカでプレーした際にもっと踏み込んだ取材ができただろう。

 
 
この95年U-17エクアドル大会だが、実は93年に開催されるはずだった。
しかしエクアドルやペルーでコレラが蔓延したので95年に延期され、93年大会は日本開催となった。
南米の多くの国ではトイレットペーパーを流せないことが多く、使用済みのペーパーは備え付けのゴミ箱に捨てる。
このゴミ箱は、普通は個室の床に置いてある。
しかしコロンビアはボゴタの空港ではカベに据え付けられている。
身を乗り出さずにすむので、捨てやすいことは間違いない。
しかし、顔に近すぎる。
男子トイレの個室のゴミ箱は、鼻をかんだものなどを除き、9割以上が糞をふいた紙だ。
それが顔の近くにある。
捨てるのには便利ながら、糞紙が間近にあるのは気色が悪い。
閉口ものだが、口を閉じると臭いをかぎそうなので口で息をする。
しかし、それも気持ち悪い。

 
 
こうしてゴミ箱に捨てられた使用済みのペーパーは、残飯などと一緒にビニール袋に入れて捨てられる。
その袋を野良犬が破って残飯をあさり、糞紙がまき散らされて風に舞う。
そんな光景を何度も眼にし、「コレラが蔓延するわけだ」と納得した。
しかし、コロナに比べれば、コレラなど可愛いものだ。
 
 
93年の日本大会は、試験的にスローインをキックインに変更するというルールで行われた。
得点が減少してつまらなくなった、という声が当時は多く、それを改善しようとFIFAが考えて導入したのがキックインだった。
日本代表のCFは身長190センチ以上の船越。
彼のヘッドが大きな武器である日本にとって、このルールは喜ばしいものだった。
キックインならば、ハーフライン近くからでも彼の頭を狙える。
そしてこのチームには、プレースキックの名手である財前がいた。
中田ヒデもいたが、セットプレーのキッカーは彼だった。
こうして、相手陣地でタッチラインからボールが出ると、財前がそこへトコトコ歩く。
右サイドからキックインし、すぐに左サイドからボールが出ると、そこへ向かってトコトコ歩く。
ということでアウト・オブ・プレーの時間が長すぎ、得点が少ない以上につまらないということでキックインルールはボツとなった。


About The Author

ホルヘ三村

ラテンのフットボールを愛し、現在はgol.アルゼンチン支局長として首都ブエノスアイレスに拠点を置き、コパリベルタドーレス、コパアメリカ、ワールドカップ予選や各国のローカルリーグを取材し世界のメディアに情報を発信する国際派フォトジャーナリスト。 取材先の南米各国では、現地のセニョリータとの密接な交流を企でては失敗を重ねているが、酒を中心としたナイトライフには造詣が深い。 ヘディングはダメ。左足で蹴れないという二重苦プレーヤーながら、美味い酒を呑むためにボールを追い回している。 女性とアルコールとフットボールの日々を送る、尊敬すべき人生の達観者。

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