アディオス

6月24日、ブエノスアイレスのホルヘのマンションの管理会社から、全住民宛の一斉メールが届いた。 そこには、「4-AのロミーナさんがCOVID-19に感染して入院し、同居している家族は検査を行った」と書いてあった。 日本では、このような個人情報を知らせることはないのではないだろうか。 しかし感染拡大防止の観点からすれば、情報を共有したほうがいいのは明らかだ。 専門家は7月中旬がピークとなると予想しており、24日...

リオ解禁

これまで何度も書いたが、アルゼンチンは3月20日に強制力のあるロックダウンを行い国境も封鎖した。 WHOがパンデミック宣言を出してすぐのことで、新型コロナ対策の動きは、すでに被害が出ていた国々を除けば世界的に早かった。 1日の国内感染者数は数十人台で推移していた。 ロックダウンは延長を重ね、やがて感染者数は減少に向かうと思いきや、5月8日に初の200人超え。 そして約40日後の6月19日には、その10倍の20...

DOC FC

前々回、「ペルーの妙案」で、ペルーリーグは移動による感染拡大を防ぐため、全チームを一か所に集めるセントラル方式での再開を検討していることを紹介した。 6月8日にそれが正式に決定し、7月31日からリマを開催地として行うこととなった。 本来なら隔離された田舎町のほうがいいのだろうが、全チーム用の宿泊施設、練習場、複数の試合会場という条件をクリアできるのは大都会しかない。     この発表後、アメリカのMLSも7...

再開と告白

感染者の少ないニカラグアを除き、中南米すべて国でサッカーリーグは中断もしくは打ち切りとなっていた。 そんな中、19日からコスタリカリーグが先陣を切って再開された。 もちろん無観客の上に厳しい感染予防措置を講じてのことだ。 しかし再開2節目にしてFCリモンに6つの掟破りが発覚した。 審判団の入場口に用意しなければならない手洗い所とアルコールジェルがない。 許可されていない人物が試合1時間半前にスタジアム内にい...

ペルーの妙案

黒川元検事長が賭け麻雀をした5月1日に、新型コロナの感染者数が世界10位の9万2,109人で死者数は6,410人だったブラジルは、わずか3週間後の22日には感染者が33万2,382人で2位となり、死者も2万1,116人と急増した。 そんな中でもボルソナロ政権はプロサッカーリーグの早い再開を目指しており、多くのクラブは感染に注意しながら練習を始めた。 しかし感染者の多いリオデジャネイロ州は、州独自の規制を定めてプロ...

サッカー選手の日

ブラジルでは5月18日の感染者が約14,000人となり、トータルでは20万人オーバーとなった。 ちょうど2週間前が10万人弱で先週が15万人弱。 先週に比べて増加率は下がったとはいえ、1週間で5万人前後と感染者数の増加は変わっていない。 CONMEBOLは9月からコパ・リベルタドーレス、コパ・スダメリカーナの再開を目指しているが、ブラジルの新型コロナ対策が他の南米諸国と異なっているため、感染者数が下火にならなけ...

5月8日

GW明けの5月8日、新型コロナの感染者が久しぶりに100人を下回った。 しかし日本よりはるかに早く、しかも厳しい外出禁止令を出したアルゼンチンは、同日の感染者が初の200人超えとなる240人を記録した。 こうなると巣ごもりの効果が疑わしくなるが、240人のうち207人がブエノスアイレス州で、首都であるブエノスアイレス市に130人と集中している。 特にビジャと呼ばれるスラム街に多いという。     このため...

打ち切り 再開 労使交渉

5月1日時点、新型コロナの感染者が日本(14,516名)の3分の1強の4,519名で、死者は日本(466名)のおよそ半分の225名のアルゼンチンは、今シーズンのスーペルリーガと下部リーグの打ち切りを決めた。 スーペルリーガは開幕の第1節は行ったものの、その後は無期限中断となり、最終的にこの決定となった。     パンデミック宣言後に素早く外出禁止令を出したフェルナンデス大統領は、「この措置の目的は時間稼ぎだ。...

無観客、無降格

コロナ禍で先の見えない中、アルゼンチンのスーペルリーガは、今後2年間の降格凍結を決めた。 クラブはどこもリーグ戦中断によって大きな経済的ダメージを受けており、再開してもすぐには回復できない。 大型補強など困難で、安い選手やユース上がりばかりでチームを編成しなければならないクラブが多くなる。 そうなればレベルの低下は避けられず、伝統のあるクラブが降格するかもしれない。 それを救済するため、降格凍結の救済措置を打...

W杯延期

1995年、エクアドルでU-17W杯が開催された。 日本も出場し、メンバーには小野、稲本、酒井、高原など、のちに”黄金世代“と呼ばれる選手が名を連ねていた。 当時はすでに2002年W杯の日本招致が決まっていたため、そのアピール活動ということで、大会前の春休みにブラジル、ペルー、エクアドルを巡る南米合宿を行った。 その時点では、日本サッカー協会史上、もっともお金を使ったユース代表だったそうだ。 ホルヘはこの合宿...